2020/07/04
ハートネットTVで「臓器移植」の現状を知りました。
本当に当事者しか見えてこない問題点が山積みなのでしょう。
私は臓器移植を体験していないので、その過酷さは脳脊髄液減少症の何倍もなんだろうな、としか考えられません。
ただ、別の思いも浮かびます。
こうした「一人の人を助けるための募金活動」を知るたび、ある一つの思いがわくのです。
もし、私が幼くして臓器移植しか生き延びる方法がなくなったとしても、私の両親は、募金活動をするような人ではないし、そのような活動力もないだろうし、人を動かす力も人とのネットワークも行動力もないから、あきらめられるだろうな、ということ。
もし、私が大人になって臓器移植が必要になっても、荻原正人さんが太田光さんに、情報を持ってきてもらったように、助けてくれるような人たちが大勢周りにいて、「助かる道や治療をやっているところの情報を調べて教えてくれるような人」が現れ助けてもらえることはないんだろうな、ましてや街頭に立って私のために募金活動をして移植のお金を集めるなんてこと、絶対に起こるはずはないだろうな、だから生きることをあきらめざるを得ないだろな、ということ。
脳脊髄液漏れのブラッドパッチ治療が、検査から治療までつい最近まで全部自費の時代を私は生きてきました。
だから思うのです。
当時、脳脊髄液減少症でブラッドパッチ治療が必要になったとしても、一回30万円の入院治療費を5回も6回も払える人ばかりではないはずだし、交通事故の被害者なのに、当時脳脊髄液漏れという交通事故後遺症の存在すら否定されていたから、被害者なのにお金がないからと言って、自費の治療費も払えず、家族にも相手にされず、苦しみ抜いて孤独の中、生き抜けた人がどれくらいいたのだろうか? あの苦しみで治療も受けないまま生き残ることは、私だったらとてもできないから、亡くなった人もいるのではないか?と、考えてしまうのです。
交通事故で脳脊髄液が漏れて、治療費が健康保険がきかず、自費でお金が払えないからといって、「お前のために募金活動してやる!」と立ち上がる親や仲間がいるとは、とうてい思えません。
「命が危ない!臓器移植が必要!」という名目なら、周りもその深刻さがわかるから、そうした支援者が現れてもおかしくないかもしれませんが、「脳脊髄液減少症の治療費が払えないから募金をお願いします。」なんていっても、「風邪ひいてお金がなくて受診できないんです。」ぐらいにしか他人には伝わらず、
脳脊髄液減少症の表現に苦しむような数々の苦しみや、他の疾患にはないような問題点、にも誰も気づかないでしょう。
一見元気そう、死ななそうに見える脳脊髄液減少症患者が、お金がないから治療が受けられない状況に当時陥っていたとしても、そう簡単には、周りの家族や友人知人が立ち上がって、「それなら私たちがあなたを助けるためにお金を募金で集めてあげましょう。」とはならないと思うのです。
当時、私が健康保険適用外だった検査や治療を何度も繰り返していた中で、受けられない人たちがいることを感じて、どうして交通事故の被害者がこんな目に合うのだろうとずっと思っていました。
患者自らが動かなくても、周りが動いて患者を助けようとして募金活動までしてくれる環境にいる患者は本当に人に恵まれたごく一部の人にすぎません。
そういったラッキーな人たちの陰で、周囲の無理解と無関心の中で、誰にも助けてもらえないまま、孤独に死を迎えている人たちもいることを、私はずっと感じてしまうのです。
子供の脳脊髄液減少症患者でも、医師に見逃され「異常なし」とされたために、親にも「なまけ」とされて、相手にされない子たちも現在でもたくさん潜在しているでしょう。
親が騒いで子供を病院に連れまわし、脳脊髄液減少症にたどり着き、裁判まで起こしてもらえるようなそんな恵まれた子供ばかりではないと思います。
今も、親の無関心の中で、症状を誰にも信じてもらえず一人で苦しんでいる子もいると思います。
大人の患者も、いいおじさんおばさんになって、脳脊髄液減少症に苦しんでも、お金がなくても、遠くの専門医を受診できなくても、周りが「〇〇さんを救う会」なんて立ち上げて助けてくれるわけもありません。
私は、こどもの自殺、中高年の自殺者の中に、医療から見捨てられ、社会から見捨てられた、脳脊髄液減少症患者がいるような気がしてならないのです。
2016年には嘘の募金活動もありました。産経ニュース「心臓手術のため募金」は伯母の虚偽発表
このケースでも拡張型心筋症だったから募金はあつまったのであって、
脳脊髄液減少症では1回の検査とブラッドパッチ治療が健康保険適用外で自費治療当時だった40万円程度×数回分でさえ、募金は集まらなかったでしょう。
当時、「こどもを抱えて生きるのに脳脊髄液漏れを治さないと働けないのです、でも自費でお金が用意できず払えないので治療を何度も受けられないのです、募金をお願いします。」なんて言っても誰も見向きもしないでしょう。
募金とは、社会的にその病の深刻さと治療の難しさ、外国などでの治療しか道がないなどの困難さが医師にも社会一般にも十分伝わっていないと集まらないものだと私は思います。
社会や医学界に理解がないから、治療に健康保険た適用になっていないからといって、誰にでも転んででも起こりうる脳脊髄液減少症では、募金など集まらないでしょう。
その人がどんなに貧しくお金がなく、どんなに寝たきりであっても、「脳脊髄液減少症」では無理でしょう。
それに、募金の呼びかけを知るたび思うのは、いつの時代も、募金で助けてもらえるような人脈や家族に恵まれている患者ばかりではないはずです。その陰で何人もの人が、そんな募金とは縁がないところで苦痛にあえぎながら亡くなっていたり、今も苦しみ続けていることを私は考えてしまうのです。
心臓病でも脳脊髄液減少症でも、その人に支えてくれる家族や人脈があってもなくても、平等に助けてもらえるようになってもらいたいものです。