2020/07/04

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私は病名コレクターにはもうならない
私はドクターショッピングする困った患者だと医師に思われていた。
原因不明のいろいろな不定愁訴をしつこく訴えてくるから。
治らないから必死に医師に伝えると、それがかえって、医師には「心の病」と思われ誤診されたりする。
脳脊髄液減少症は、異常なしと切り捨てられるのと同時に、症状ごとに脳脊髄液減少症を知らない医師によって、いろいろな病名がつけられる。
病名をつけないと保険適用で薬を処方できないから、当時の医師は私の症状の本当の原因がわからないながらも、いろいろな病名をつけて、張り薬とか痛み止めとか、処方してくれたのだと思う。
それはそれで助かったけれど、誰も脳脊髄液減少症という本質には気づけなかった。
結果的に、当時の診断名はすべて「誤診」だ。
その当時私につけられた「誤診」と思われる病名は、私はすでに捨てている。ひとつひとつ全部とっておいて、自分の病名に累積してつけたりしていない。
だって、私は病名は勲章ではないと思っているから。
だから、私は私の今の状況を示すための病名は必要最低限しかいらないし、名乗らない。
だって、いくら、たくさんの病名がついても、私には何の得もないから。
病名をたくさん、いろいろな医師からつけてもらって、勲章みたいに「病名」の名札を私の胸につけたら、みんなが真剣に私に救いの手を差し伸べてくれるだろうか?
そんなことはない。
病名だけをたくさん集め、コレクションしたところで、回復には何の役にもならない。
病名を勲章みたいに、集めて得意げに誰かに見せつけたところで、自分が得をすることも、相手をうらやましがらせて自己満足することもできない。
病名が多ければ多いほど、誰かが私をせめて同情をしてくれるだろうか?
同情なんて、こちらからお断りだけど、いくら勲章みたいに病名を集めて胸につけても、誰も同情さえもしてくれない。
そんなことはない。
私の苦しい症状にいくら病名がついても、誰も同情はしてくれない。
だからいくつも病名なんて、私はいらない。
病名たくさん集めて、名乗って“不幸自慢”なんかもしたくない。
でも、私がもし、発症からすぐ、たとえ誤診でも、いろいろ親切な医師に恵まれて、すぐさま病名がいろいろついたら・・・・どうだろうか?
それらの医師がつけてくらた病名のすべては、なかなか捨てられないと思う。
それぞれの医師が、それぞれの考えで、私の症状に一生懸命考えて、つけてくださった病名だから。
「気のせいだ、あんたの性格が生んだ症状だ」というひどい医師よりも、一生懸命私を救おうとして、私の症状ごとに、一生懸命考えて、私の症状に符合する病名を見つけて名付けてくださった医師たちがもしいたら、
その先生たちの診断を、捨てることは結構勇気がいることかもしれない。
そんな優しい先生たちがいて理解しようとして支えてくれたのに、のちに、検査で症状の原因が脳脊髄液漏れだとわかったとしても、
先にいろいろその先生なりに考えて病名をつけてくれた医師たちを「誤診」だと先生には言い出せない。
だから元のつけられていた病名はなかなか切り捨てられないかもしれない。
先生方のやさしさを「誤診した医師め」って蹴落とすような気がして。
だから、誤診した先生たちの前では、先生の診断を否定せず、過去につけられていた病名を捨てずに、「脳脊髄液減少症」を足すだけかもしれない。
だけど、もし私がそういうことをし続けていたら、とんでもないことになる。
よけい、世間の“脳脊髄液減少症の本質”の理解を遅らせるだろう。
ただでさえ、言葉で説明しにくく、人にも医師にも理解されていない脳脊髄液減少症の本質を、よけいぼやけさせ、世間の人達をよけいまどわせ混乱させるだろう。
私の体ひとつの、脳脊髄液減少症都いう根本原因が起こしている数々の症状のひとつごとに別々の医師が、別々の病名をつけ、それを私が、取捨選択できずにいると、それはのちにさらなる脳脊髄液減少症の誤解と混乱を招くと思う。
ますます脳脊髄液減少症がわかりにくく、世間に広がりにくくなると私は感じる。
だから、私は、自分の今までの苦しみに名前をつけるなら、病名は主にひとつ。
脳脊髄液減少症だけでいい。
病名は他人に見せびらかす勲章でも、不幸自慢をするためのものではない。
病名は、自分の症状を包括するための名前であり、周囲や自分にわかりやすくするための状態の名前であり、何より、回復への道のりを歩きだすための“スタートライン”でもあり、回復というゴールへ向かうための“案内板”でもあると思っている。
だから、“スタートラインと案内板”はいくつもあっては、かえって道に迷ってしまうから、たくさんはいらない。
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