2020/07/04
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人は見た目が0%
ちょっと前まで「人は見た目が100%」というドラマがありましたが、人は見た目が100%でないことはあきらかです。
脳脊髄液減少症を見逃され続けた私はこう思うのです。
「脳脊髄液減少症患者は見た目が0%」だと。
もちろん、病人に見える、障がい者に見える、あるいは具合の悪そうな見た目の脳脊髄液減少症患者さんもいるでしょう。
ですが、私からしたら、そういう方の方が「つらいのに、健康そうにしか見えない患者」よりまだ幸いだと思うのです。
なぜなら、医師や周囲や職場が、その人につらい症状や障害があるということを、見た目だけでも判断し、その人への対応が“病人対応モード”に無意識変えてくれ、「異常なし」とは言わないだろうし、健常者に求めるようなさまざまなことを当たり前に求めないだろうし、いたわりの目で見て対応してくれる可能性があると思うからです。
たとえ病名がわからなくても、おしかしたら心の病からきている身体症状かもしれないと思われたとしても、実際に医師が診察して手足に麻痺があるとか、それによって車いすを使わざるをえないとか、の状況であることを確認できれば、「健常者」ではないことを認めてくれるでしょう。
しかし、見た目も普通、どれどころかむしろ「元気そう」なのに、いろいろな症状を訴えてくる、検査結果も異常なし、異常なしと説明しても、なお患者は必死につらい症状をしつこく何度も訴え続ける、となれば、医師も周囲も次第に冷たい対応になってくるはずです。
こうした脳脊髄液減少症患者が、実は一番悲惨だと私は思うのです。
医師は昔から、医学教育の長い歴史の中で、患者の病気の原因を探る手段として、脈、呼吸数、体温などの他、表情、顔色、歩き方、しゃべり方、など、患者の外見に出てきている情報を良く観察して見て考えることを学ばされてきたはずです。
昔の医師は、MRIも、CTも、RIも、血液検査も心電図もなかった時代、患者を内側から診ることができなかったのですから、患者の外側から診ることで症状の原因を探ることしかできなかったのですからしかたありません。
患者の外側から読み取れる情報を集めて総合的に診断する医学が長い歴史の中発展していく中で、次第に時代の流れとともに、患者の内側からのデータも診断に組み込まれてきたのでしょう。
しかし、それはつい最近のことです。人類の歴史の中で、長かったのは、患者以外の第三者は、患者の状況を、患者の外側から見て推し量るしかなかったはずです。
その結果、人類の長い歴史の中で、医学は、外見が元気そうに見える人、外見的に異常がない人=“大丈夫”というイメージが定着してしまったのかもしれません。
しかし、脳脊髄液減少症患者には、見た目の印象は当てはまりません。
本人が、耐え難い拷問のような症状の苦しみを24時間、365日抱えていても、なぜか外見が元気そうに見えることがあります。
患者の感じている脳脊髄液減少症の症状は、非常に表現が難しく、それを大人である脳脊髄液減少症患者が、思いつく限りのたとえをつかって症状を表現しようとしても、正確に医師に伝えるのは困難です。
その上、一生懸命、冷静に、なんとかして医師に自分の異常をわかってもらおうと、必死に症状を伝えようとすればするほど、一見元気そうな患者の姿と、その症状の訴えの多彩さひどさと、症状を訴える熱心さとのギャップに、医師は「?」と疑念を持たれてしまうのです。
その結果、詐病、心の病、などと誤解されがちなのです。
脳脊髄液減少症患者を見抜くコツは、外見で判断しないことです。
たとえ歩いて診察室に入ってきても、たとえ、10分以上座っていられても、たとえ、きちんと順序立てて、はっきりとした発音で話せたとしても、
まずは、患者の症状を先入観なしで、聞いてあげてください。
医師は常に、“脳脊髄液減少症患者は、見た目が0%”と頭の片隅において患者を診るぐらいでちょうどいいと、私は思っています。