2020/07/04
先日、テレビ(本当は怖い!?女性を巡る脳科学スペシャル)で中野信子先生が、ヘルパーズハイについて解説していました。
「ヘルパーズハイ」について気になったので、私の意見を書きたいと思います。
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ヘルパーズハイとランナーズハイ
中野信子先生によると、ヘルパーズハイとはランナーズハイと同じで、「誰かを助けている時に、快感のホルモンがたくさんでる」状態なのだそうです。
中野先生の本
「ボランティア中毒」みたいになっていく人もいるが、でも誰も困らない。すごくいいことなので積極的にやっていただきたい。」と言っていました。
確かに、私の知っている人の中に、何人かの「運動中毒」と思われる人がいます。
一人はランニングが趣味のようで、毎日のように走っているようです。
もう一人は、朝からスポーツジムで、毎日ランニングマシンを走っています。
自分の体を鍛えるために、走ること、筋トレをすること、運動をすることはとてもいいことだと思うのですが、私から見てそれが少し度を過ぎているのでは?と思う人もいます。
「運動をすることで脳から快感物質が出ることで、脳がその快感物質ほしさに運動をして、快感物質依存症のために運動をし続けているのでは?」と思うこともあるのです。
ですから、「一見、誰も困らず、積極的にやっていい、健康的な行動」と思われるようなことでも、実は弊害があるものもあると私は思っています。
ヘルパーズハイは「誰も困らない行為」なのか?
「ヘルパーズハイ」は必ずしも誰も困らない行為なのでしょうか?
私はそうは思いません。
時と場合によってはボランティア中毒のような「ランナーズハイ」になっている人たちの行為は、それを受ける当事者にとって害になることもあると私は考えています。
特に介護される側、患者側にとって、周囲の人間の「ヘルパーズハイ」による過剰な世話焼きは、その人が自分でできること、または自分で挑戦すればできるようになる可能性まで、奪いとってしまうと思います。
周囲の家族や介護者がやってしまいがちな「過剰な介助や過剰な世話焼き」は介護される側の回復の芽を摘み取ります。
本人が望んでいないことまで周囲がどんどん先回りしてやってしまう。
そのことによって、どんどん本人を回復から遠ざけてしまう行為は、「依存と共依存」の関係に似ています。
患者本人が本当に困っていて助けてほしいことにはあまり関心を示さず手を貸さないのに、介助する側がしたい介助、支援、支援する側がやりたい支援は極的にやるのです。
それはあくまで支援する側の自己満足であって、、患者本人にとっては役にたたないどころか、時には苦痛にさえなり、さらには回復の可能性まで奪われかねないのです。
そういう患者の周囲の「ヘルパーズハイ」的な行為は、患者の回復を精神的身体的に阻害すると、私は感じます。
家族の患者への、「過剰な世話焼き行為」、「先回り行為」、「自己満足的支援行為」になっていないか?を良く考えてほしいです。
本当にその当事者の助けや回復につながるような支援を行っていただきたいと私は思います。
また、患者自身も、親や配偶者、周囲の人たちが「ヘルパーズハイ」になっていないか自分で注意し、過剰な支援は自分でちゃんと断ることです。
患者の自分が頼んでもいないことを周囲が良かれと思って勝手にやっていないか?自分の意思を確認しないまま周囲が勝手に動いていないか?をよく見極め、自分が望まないことは、はっきりと「NO」を言うことです。
逆に支援が必要なことは言うことです。(私のように言っても誰も助けてくれないモノもありますが・・・見た目で私が自分でできそうに見えるから…誤解されます。)
患者自身が自分のことを助けることに一番一生懸命にならずに、どうして回復できるでしょうか?
自分にとって、何が支援が必要なことで、何が自分でできることなのか?自分で考える力がわずかでも残っているなら、その能力をフル回転して考えることです。
特に二十歳すぎた患者は、大人ですから、自己決定権はなおさら自分にあるのですから、周囲の「ヘルパーズハイ」の人たちに甘えすぎないように注意が必要です。
甘えすぎると、自分で回復する道を切り開くことや、人生に起こる困難を自分で切り抜け社会を生き抜く力を育てる機会を失い続けてしまうと思います。