リカ場 ~私の脳脊髄液減少症のリカバリー~

医師も知らない脳脊髄液減少症当事者の思いと現実

当事者からの発信がまたひとり消える?

time 2018/08/31

当事者からの発信がまたひとり消える?

2018年8月28日の朝日新聞、「声」 オピニオン&フォーラムのページの下の方の「HUFFPOST」に、気になる記事がありました。

それが、『摂食障害の「救世主」やめる決断』と題された記事でした。

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「摂食障害について私が語るのをやめるとき」について

記事によると、

摂食障害を6年がかりで克服した女性が、今まで自身の経験から得た「思いや教訓」をツィッターなどで発信してきたが、20日の「『摂食障害』について、私が語るのをやめるとき」の記事で、「救世主」としての苦しみを明かしたという。

私はその女性のツイッターは読んでいないので、直接どのようなことが書かれていたのかはわかりません。(最近、他の人の記事は読むといろいろと心が乱れるのであえて読まないようにしています。)

けれど、なんとなく、朝日新聞の、記者の記事で、その当事者の方の気持ちがわかる気がしました。

記事には、その女性は

「自分に語れるものは摂食障害の経験だけ」と悩むようになり、「過去の苦しかった経験ではなく、自分の好きなこと、楽しかったこと」を語れる人になりたい、と思い始めたという。

だが、「『摂食障害』について語るのをやめたとき、私に語れるものはあるんだろうか」と不安も語る。

とありました。

この記事を書いた記者は、こうも記事に書いています。

私は彼女を実際に取材し、その前向きで朗らかな人柄に触れた。それだけに彼女の決断を応援したい。そして勝手な願いだが、もう一度、摂食障害について語れる日が来ればと思う。今後も彼女の言葉で救われる人がたくさんいるはずだから。

とありました。
かつて摂食障害を克服したという彼女のツィッターを目にし、この記者は取材し、過去に記事にでもしていたのでしょうか?そんな気がしました。

当事者と、当事者でない人で当事者を取り上げ伝える記者と、克服した人に集まり救いを求めて集まってくる新参者の当事者たと、その3者の人それぞれの思いの違いのような気が、私はするのです。

おそらく当事者、克服者として語ること、語ることを周囲に期待されること、そして決して再発してはならない克服者でい続けることのプレッシャーや、つらい過去をひとつひとつ振り返って思いや教訓を語ることのつらさ、そしてそんな自分に救いを求めてすがりついてくる多くの新規当事者たちの対応に、この方は疲れてしまったのかもしれないな、と、

そんな風に私は感じました。

当事者として語るのがつらくなったり苦しくなったり疲れたら、やめればいい。
昔、戦争時にいろいろなひどい目にあった人たちだって、語ることを死ぬまで避けていった人たちだっています。

当事者、体験者として、語ることがあまりにつらすぎて、人に信じてもらえなさそうで、深刻に受け止めてもらえなさそうで、関心をもってもらえなさそうで、関心をもってくれる人は皆病んだ人たちばかりで、その対応に疲れるなら、語るのをやめればいい。

でも、当事者が語らなければ永遠に、当事者のことなんか誰も理解するわけがないのです。

最近のLGBTの人たちの活動を見ていると、その昔、「自分は体は男だけど中身は女」なんて言ったって、誰も理解してくれなかった時代があったのに、当事者たちが、世界中で声を上げ、少しずつ世の中に理解を広めてきたことを思うと、当事者は黙っていてはいけないとは私は思います。

けれど、当事者が自分がつらくなってまで、語り続ける必要はないし、誰かの参考になればと無理に「救世主」になり続ける必要もないと私は思うのです。

何年もかかって摂食障害を克服した彼女に、すがりついてきた女性たちは、彼女に救いを求めたのでしょうが、彼女は自分自身を支え続けるのもやっとなのに、すがりついてきた摂食障害の女性たちの相談相手までするのが苦痛になってきたのではないか?と想像したりしています。

私自身、脳脊髄液減少症のことはもう、思い出したくもないことばかりで、これから新しく出会う人たちには、脳脊髄液減少症のことはあえて言う必要もないと思ったことがあります。

でも、私には他人や社会に伝えられることは「脳脊髄液減少症の経験だけ」だと自覚しています。

私も、「過去の苦しかった経験ではなく、これからは楽しかったこと、好きなことを語れる人になりたい。」とは思います。
しかし、私が脳脊髄液減少症を語る時、怒りうずまき、愚痴や妬み、恨みつらみ、悲しみ、といった、ネガティブな感情とは切っても切り離せません。けっして、明るく前向きで朗らかに、脳脊髄液減少症について語れるものではありません。
戦争の話だって、ネガティブな感情抜きに、明るく前向きに話せと言われたら、戦争体験者は語れないでしょう。

ネガティブな感情で話をする人=好ましくない人格の人 ではないのです。

しかし、マスコミも、救世主を求める人たちも、明るく前向きで朗らかな病の克服者を求めているのでしょう。
いえ、マスコミはそういう「ポジティブ」な人しか好まないし、選ばないから、そういう人たちだけしか世の中で報じられていないのだと私は思います。

もし、私が周囲から「あなたは明るく前向きでポジティブな人」と周囲の人たちに言われたり、そういう期待をされたなら、実は「うらみつらみ、怒り、迷い、妬み、消えたい気分」なども合わせもって生きてきた自身と、周囲から与えられるイメージや期待との差に、悩み苦しむことでしょう。

「克服者」だって人間だもの、完璧じゃない。心や体が不調になって「再発」することだってあるし、弱気になりすべてが嫌になることだって、ネガティブな感情になったり、他人の相談相手が面倒になる時だってあるはず。

それなのに、周囲からずっと「救世主」としての位置づけを求められ続けたら、それはつらいと思います。

当事者は、語れる時に語ればいい。
語りたいこと、伝えたいことを、一方通行でいいから語ればいい。
ネガティブ感情だってありのままに出せばいい。それが当事者のありのままの思いなのだったらそれでいいと私は思います。

記者の「彼女の前向きで朗らかな人柄」という言葉にこそ、もし私が同じことを言われたら重荷を感じ語りたくなくなります。

私も他人に「あなた明るいから」とか言われると、内心「何も私のことや過去の苦しみなんて知らないくせに」と、ムッとします。

当事者は語らない人たちが多い中、語ろうとする当事者はその存在だけで「貴重」だとみんなが大切に扱ってあげてほしい。
そのやっとの思いでの当事者の彼女の語りに対して、批判したり、中傷したり、患者のふりして近づいてきたり、そういう人たちもきっとたくさんいたんだろうな。

マスコミで取り上げられたりしている人なら、ありうることだと思います。それで疲れてしまったのでは?と想像したりもしています。

発信するのも、それだけで当事者はエネルギーを使っていたはず。
だって苦しかったことをあえて思い出し、その時の感情や思いや教訓を考え、それを文章にしてネット上に飛ばすわけだから・・・。

当事者が、ありのままの自分を、誰になんと批判されようと、語っていい、と思えた時、また語ってほしいと私は思います。

過去の苦しかった経験を語ることは、自分にしかできないし、自分の好きなこと、楽しかったことは、自分の過去の経験からの教訓を必要としない人たちに語ればいい。私はそう思います。

もし私が、「『脳脊髄液減少症』について、私が語るのをやめる時」がきたら、世の中には、すべて同じ脳脊髄液減少症でも「最近発症の患者」ばかりの発信になってしまい、多くの人たちは過去の患者に何があったのか?知る由もなくなることでしょう。

戦争体験者が死に絶えた時、戦争の加害者、被害者、当事者として語れる人がいなくなり、伝え聞いた現代の人たちしかいなくなるのと似ていて、危機感を感じます。

「脳脊髄液減少症」の病名がない時代、医師の助けもなく生き抜いた当事者たちは、命あるうちにそのすべての経験やその時の怒り、悲しみ、絶望などを、語ってほしいと私は思います。

間違っても、その苦しかった過去を黙って墓場まで持っていってしまわないでほしいと思います。

だって、今でさえ、私たち(脳脊髄液減少症の病名さえなかった時代の患者)の経験は、「なかったこと」にされてしまいつつあるのですから。

(マスコミでは最近の患者の事例ばかりが報道され続けていると感じるのはその方が、事故との因果関係が証明しやく、世間に納得されやすいからなのでしょうか?でも、脳脊髄液減少症の本当の恐ろしさを知っているのは、病名がない時代、医師にも相手にされなかった時間が長かった患者だけだと思うのです。)

といいつつ、いつかくるでしょう。私が脳脊髄液減少症について語るのをやめる時が・・・。

最近の患者さんたちは、自分から症状の原因を探らなくても、脳脊髄液減少症を知っている医師が増えたせいで、医師が患者より先に、「脳脊髄液減少症」に気づいて専門医を紹介してくれたり、健康保険適用で、最初からやすやすとブラッドパッチ治療を受けられたり、交通事故からすぐ脳脊髄液減少症と診断されてすぐ入院治療に入れたり、損害保険会社からそれなりの補償を受けられたり、裁判で勝ったり、地域医療や暖かな家族に理解され支えられたり、そうい患者さんたちの存在すら知るのもつらくなってきていますから。

私には、そのすべてがない時代を孤独の中、生き抜かねばならず、自分で原因を探さなくてはならない時代でしたから。

どれだけ当時の医師に傷つけられてきたことか・・・。

だから、当事者は、過去のつらい経験やそこから得た教訓や、思いなんて語るより、今現在、楽しいことを語る方が気楽なのです。

脳脊髄液減少症のことしか語れない自分は、ダメな自分だとは、私は思いません。

だから、彼女も、自分に語れるものが「摂食障害」のことだけだったとしても、少しも落ち込む必要はないと思うのです。むしろ、それは宝石のように、貴重な話であり教訓であり当事者の思いだと、私は思うからです。

脳脊髄液減少症でも食行動がおかしくなる

最後に言いますが、脳脊髄液漏れなどで誰にも知られることなく脳に異変が起こることでも摂食行動に異常が起こりえます。

脳脊髄液減少症でも、食行動に異常が起こります。

私は「拒食症・過食症」というほとではありませんでしたが、食事が食べられなくなったり、逆に特定のものだけをむさぼり食べ、飲むような状況になったことがあります。

脳から命令される感じで、自分では止められないのです。どうしようもないのです。

ですから、脳脊髄液減少症でも、脳が機能障害を起こし、食行動に異常を起こすことで、「摂食障害」と診断されかねない状態になる人もいるのではないか?と思っています。

髄液漏れの主訴は実際は人それぞれなのに、「起立性頭痛が必須」だなんて思いこんでいる医師には、「吐き気がして食べられない、その反対に貪り食う」ようなことが同じ人に起こる現象の影に、髄液漏れで脳が不調になっている、なんてことを想像できる医師がはたして現代にいるでしょうか?。

摂食障害の専門家の中にも、脳脊髄液減少症とも無関係とはいえないことに気づいて研究している人ははたしているのでしょうか?

おそらくいないでしょう。とても残念です。

いたら、ここのコメント欄に名乗り出てほしいです。

だから、こういうことがあるからこそ、当事者が体験から気付いたこと、感じたこと、を語ることは、当事者が楽しかったこと好きなことを語るより、意味があることだとも私は思うのです。

誰かのためにではなく、自分を癒すために語り続けることができ、それが結果的に同じ悩みを持つ人たちの参考や希望や励ましになるのであれば、それが一番いいとは思います。

 

 

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自己紹介

lily

脳脊髄液減少症のサバイバーです。私が生きているうちに「原因不明」「異常なし」「精神的なもの」とされたり、何かすでに別の病名がついている人たちの中に、脳脊髄液減少症が隠れている可能性について、広く社会に伝えたいと思っています。

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